熊取莊
十二村あり其中の五門村といふに中左近 大久保村に中左太夫といふ家あり
里諺に云むかし寛治の頃法皇熊野御幸の時此家を行宮となし給ふとそ
今に遺風ありて唐門の形なるものあり故に其頃より御門村と書しを恐れありとて後世五門と書かへしとそ
唯土人の口穪のみとして旧記實録なし
此二家は其地の村甲にして元和の頃東軍に属し大坂の一乱に勲㓛をなして三千石を賜ふ
根來小左次の支族也根來の苗孫は今なを江戸にあり
原此熊取ノ郷と申は桓武天皇延暦廿三年十月遊獵し給ふ地なり
日本後記に見へたり
里諺に云むかし寛治の頃法皇熊野御幸の時此家を行宮となし給ふとそ
今に遺風ありて唐門の形なるものあり故に其頃より御門村と書しを恐れありとて後世五門と書かへしとそ
唯土人の口穪のみとして旧記實録なし
此二家は其地の村甲にして元和の頃東軍に属し大坂の一乱に勲㓛をなして三千石を賜ふ
根來小左次の支族也根來の苗孫は今なを江戸にあり
原此熊取ノ郷と申は桓武天皇延暦廿三年十月遊獵し給ふ地なり
日本後記に見へたり